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戦争体験記16

取材日 2024年12月22日(日)

  旧NHK局と僕の会社

  旧NHK局と僕の会社

 海軍兵がトラックで移動

 海軍兵がトラックで移動

   上司と犯人との大泣き

   上司と犯人との大泣き

     戦争体験(玉音放送を聞く)戦争体験記15から続く 
 僕は1945年(昭和20年)航空陸軍第2本部に勤め、飛行機などの計器の監査をする仕事をしていました。第2本部は旧NHK (現在は博物館として活躍)の建物と道路一つ隔た所に建っていました。  
  
  昭和20年3月、東京大空襲は下町の工場や住民が爆撃を受けました。5月は、山の手地区や銀行や役所が焼け出され、10万人が犠牲となりました。度重なる大空襲に、市民は敗戦に向かっていることを、実感せざるを得ない現状でした。しかし陸軍は「勝つ!」と信じ込ませていました。「最後の一人まで戦う!」「焼夷弾が落ちたら、火をたたいて消す」等、今では考えられない事が当たり前でした。


  昭和20年8月14日の夜は、僕は当直の日でした。明日15日の12時に、玉音放送があると知らされていました。本部の空気は、敗戦の発表だと暗黙の了解でした。1日中、もやもやした気持ちで口数も少なく過ごしました。


  15日早朝2階の窓を少し開けNHK局方面を見ました。 日常のNHK局の周りの警備は、50人の陸軍が、日本刀を腰に携え重装備で守備にあたっていました。驚いたことに警備は、海軍兵に代わっていました。 海軍兵は横須賀からトラックで移動してきたと後で知りました。終戦を発表する側は、陸軍は敗戦を絶対に受け入れないし、もしや反乱を起こすのではと恐れていました。
  

  正午には、玉音放送が流れました。反乱も起こることなく静かに流れました。 しかし私の職場では、たばこ盗難事件が起きていました。


  玉音放送と盗難事件は脳裏に深く残っています。 戦時中は、たばこは配給制でした。思い返せば些細なことです。職場の部屋の角に、配給前のたばこがきちんと積んでありました。そのたばこが盗まれました。犯人は仲間の一人でした。上司はいつもなら大声で叱責するはずですが、二人で大粒の涙を流して泣いていました。

今までの自分はいったい何者?「命がたすかった!」と思いました。
 
砂田 紘子
シニアリポーターの感想

戦後80年の今となっては、98歳の体験者は少なくなった。私も体験したが幼児で、ぼんやりしていたが、当時を再現したストリーが目の前に広がり胸が締め付けられる思いがした。

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