昭和20年3月、東京大空襲は下町の工場や住民が爆撃を受けました。5月は、山の手地区や銀行や役所が焼け出され、10万人が犠牲となりました。度重なる大空襲に、市民は敗戦に向かっていることを、実感せざるを得ない現状でした。しかし陸軍は「勝つ!」と信じ込ませていました。「最後の一人まで戦う!」「焼夷弾が落ちたら、火をたたいて消す」等、今では考えられない事が当たり前でした。
昭和20年8月14日の夜は、僕は当直の日でした。明日15日の12時に、玉音放送があると知らされていました。本部の空気は、敗戦の発表だと暗黙の了解でした。1日中、もやもやした気持ちで口数も少なく過ごしました。
15日早朝2階の窓を少し開けNHK局方面を見ました。 日常のNHK局の周りの警備は、50人の陸軍が、日本刀を腰に携え重装備で守備にあたっていました。驚いたことに警備は、海軍兵に代わっていました。 海軍兵は横須賀からトラックで移動してきたと後で知りました。終戦を発表する側は、陸軍は敗戦を絶対に受け入れないし、もしや反乱を起こすのではと恐れていました。
正午には、玉音放送が流れました。反乱も起こることなく静かに流れました。 しかし私の職場では、たばこ盗難事件が起きていました。
玉音放送と盗難事件は脳裏に深く残っています。 戦時中は、たばこは配給制でした。思い返せば些細なことです。職場の部屋の角に、配給前のたばこがきちんと積んでありました。そのたばこが盗まれました。犯人は仲間の一人でした。上司はいつもなら大声で叱責するはずですが、二人で大粒の涙を流して泣いていました。
今までの自分はいったい何者?「命がたすかった!」と思いました。