1945年8月9日11時2分を刻んだまま
永久平和を託す折りずる
悲惨な記憶を辿りながら
広島の街は原子爆弾の投下で一瞬にして壊滅した。その3日後1945年8月9日長崎は朝の空襲警報が解除され、人々は日常の生活に戻ろうとしていた。
米軍側は広島だけで、手を緩めることなく2回目の原子爆弾投下に向け計画を着々と進めた。一方空からは投降を促すビラも投下するが効果はない。 9日を爆弾投下と決め、候補地は小倉(北九州市)・長崎と2つに絞り、投下寸前まで気象条件を綿密に調べた。
小倉では午前10時、煙や霞があり視界が悪く(後の記録によると米軍爆弾投下をいち早く傍受した八幡製鉄所の上司の命令で、コールタールを燃やし空に煙を舞い上げ視界を遮る)、敵機は長崎に向かった。
長崎の人々は2機のB29を見て、逃げる間もなく爆弾(ファットマン)が破裂、町は地獄の様へと急変。午前11時2分だった。その強烈な破壊後に、更に火災が町を覆った。破壊力は広島のピカドンに比べ1.5倍の威力だが、山に囲まれた長崎は爆風の被害を最小限に食い止めた。 当時長崎の人口は24万人、内7万4千人が死亡。建物は約36%が全焼半壊(推定)。爆心地浦上地区の惨状は広島と同じく悲惨なものであった。
浦上天主堂では全員が即死、近くにある国民学校城山小学校で学徒報告隊員として働いていた人たちも殆どが即死し。しかしそこで唯一生き残ったのが久子さん。被爆の事は忘れようと頭の隅に追いやったが、最近ようやく手記へとたどり着いたと記す。(手記内容は次回へ)
戦争体験記2は長崎の惨状を調べたいと思っていた。観光では数回行っているが、戦争体験の目から新たに長崎を訪問するのは初めてだった。戦争体験記を読んでいた諫早に住む知人からビッグニュースが入った。20年数年ぶりの再会も兼ねて突然の出発となった。