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戦争体験記17

取材日 2025年02月05日(水)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より 山本五十六長菅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より 山本五十六長菅

  長岡は見渡す限り焼け野原となる

  長岡は見渡す限り焼け野原となる

    帰りは、怖かった!

    帰りは、怖かった!

  太平洋戦争が始まって4年が過ぎた1944年、日本は敗戦の色を濃くしていた。軍の上層部はそれを認めるどころか「日本は勝つ」「最後の一人まで戦う」と怒号した。敵国アメリカは、人民に投降を勧めようと空からビラをまいた。しかし一向に効果がない翌年1945年、無差別攻撃の方針に転換した。爆撃は地方都市へと拡大し、多数の犠牲者を出した。  

 「新潟県長岡市は戦争が始まってからも、普通の生活だった。市民は連合艦隊司令長官山本五十六の生誕地であることに誇りを持っていた。」

     山本五十六について
  戦争の口火を切ったのは、連合艦隊司令長官山本五十六だった。1941年12月8日ハワイの「真珠湾攻撃」作戦を実行した。この奇襲攻撃で、アメリカ軍将兵と民間人2400人が亡くなった。アメリカでは山本五十六を「悪魔」と呼び日本では「英雄」と崇められた。しかし、彼は1944年戦死し、国葬が行われた。

  Oさんは、長岡に住み小学2年生だった。Oさん宅は町の中心から離れていた為、激しかった焼夷弾から、何とか免れる事が出来た。
 「長岡大空襲は8月1日の真夜中。2時間に渡り焼夷弾が雨のごとく投下された。町の80%が焼け野原になる。1470名の犠牲が出た。その2週間後、戦争の終結を迎えた。その時の大人や子供の真逆の行動は忘れられないと話した。」

  その1  終戦の翌日の新聞に、山本五十六の生家を目がけ石を投げている写真が大きく載った。市民は彼が長岡生まれでなかったら長岡は狙われなかったと悔しさをあらわにしました。

  その2  私の母は助産婦、現在の共稼ぎ家庭でした。昼間は親が留守で子供が学校から帰った時、お腹を空かしていると、おにぎりを作っておくのが習慣でした。それを知ってか近所の子供たちが土足で上がり、おにぎりを食い散らしたのです。悲しかったです。  その3  母方の実家は田舎にあり、野菜などもらいに行きました。帰りには見知らぬ子供数人に待ち伏せされ、「かんじん(乞食)」とののしられ殴られました。血が出る怪我は、「今日ではないよ!」と隠し通しました。母に心配かけたくなかったからです。
砂田 紘子
シニアリポーターの感想

山本五十六は神様ともよばれ尊敬された。戦争は始めたが、「一年で終らせる。」の予想が綴られた記録がある。実際は四年半に及ぶ戦争となり彼自身も戦死した。犠牲者への悲しみは、八〇年たった今も癒えてない。

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