「今も毎日、頭の体操、体を鍛える事に専念しています。心臓や脳の写真を撮っても、何も欠陥がみつかりません。」と大正15年生まれ98歳の方は、長い歴史を見てきたとメモを繰りながら、戦争体験を語り始めました。
今の世田谷区で町工場を経営する家に生まれました。僕が乳児の時に母が亡くなり継母とおばあさんに育てられました。昭和20年(小学6年)は、麻布区で過ごしまた。3月10日・5月24日の東京大空襲も経験しました。この時期米軍は、一般市民の戦意を失わせる目的で無差別攻撃を始めたのです。
3月10日は、B29約300機が江東地区へ超低空飛行で飛来し、2時間半の爆撃で約10万人の犠牲者を出しました。
この空襲で担任の先生が、被害にあったと聞きました。そこで僕を含め3人で、江東区の担任の先生宅へ向かいました。道沿いは沢山の焼けだされた家や人々でごった返していました。
隅田川沿いは、真っ黒く焼け焦げた死体が幾重にも積み上げられていました。初めはその悲惨さに驚き、言葉もでません。しかし、しばらくすると、自分はこの無残な姿に何も感じなくなりました。今思うと恐ろしいことです。
これが人間・戦争そのものです。川沿いに建つ小屋が火葬場です。とにかく歩きました。「足元に気をつけろ!」と叫ぶ声が聞こえます。せめてもの死者への思いだったのでしょう。
近くの小学校に立ち寄ると、教室には配給用の、缶詰の山を目にしました。殆どの缶詰は、火の勢いで燃えてしまっています。しかし3分の一は、新品で残っています。お腹がすいているはずなのに、誰も持ち去ろうとしないのです。あまりの怖さと悲しみのどん底で気力を失っていたからです。
5月24日の東京大空襲で、麻布の自宅も焼け調布へと引っ越しました。私の家はメータ機など製造していたので、父の出兵もなく、又国のお咎めもなく家族3人一緒に過ごせました。
終戦後は家を継ぐべき工業学校へ進んでいた事が功を奏しました。当時アメリカ軍は壊れた日本製の機械など再生産に取り掛かりました。それがリフレッシュ・プラントです。この仕事についたお陰で、今も英語やPCをこなしています。