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戦争体験記   14-2  

取材日 2024年10月05日(土)

   日本へ帰ってきた!

   日本へ帰ってきた!

   あの子たちは、今は何をしているかな

   あの子たちは、今は何をしているかな

      エッツ、まさか

      エッツ、まさか

 
 (9月戦争体験記の続き) 豊かであった満州は敗戦と同時に、恐怖の渦中へと巻き込まれました。私は7人兄弟の末っ子です。長兄以外、上の3人は現地で結婚しました。終戦と同時に早々に引き揚げました。両親は八路軍に連行された姉を毎日探し続けました。終戦の翌年21年、これ以上の残留は、危険と判断し行方不明の姉を残し、4人で引き揚げました。貨車に乗って、収容所に向かう途中、トイレ休憩で貨車が止まります。トイレに行った子供が貨車に戻って来ません。中国人に連れ去られたのです。親がお金に困り、売る事もありました。


  青森にて

  引揚船が着いた博多港から汽車に乗り母の実家青森に向かいました。引き揚げ時は、荷物は一人1個でしたから、車中は人であふれ、荷物棚は人で一杯でした。 当時は貧乏で通学服は引き揚げた時の洋服1枚でした。友達には馬鹿にされ、いじめられました。引き揚げた事も、悪く言われ、無口になりました。子供心に、なぜ満州を引き揚げたかと悔しかったです。
 (日本は1931年満州事変で満州を占領し、勢いをつけていました。渡航費を出し入植を奨励したのです。資源は豊か、土地は広いと宣伝し27万人が生活していました。)

     長兄の仕事は               
  兄は、誰よりも早く満州に渡った1人です。頼りがいがありました。仕事は鉱山を識別する研究職で、中国には必要な人材でした。敗戦後も、帰らせてもらえません。目前で日本人が銃殺される事もあったそうです。家族が引き揚げる時、生きていたら、青森の母の実家に帰るようにと言い残して別れました。


    再開までの月日は
  父は青森に帰っても、元勤めた国鉄で働けました。家族は2人の兄姉の死亡を認めざるを得ない雰囲気でした。ところが、昭和24年の夏、仕事で、貨車を押していました。何気なく振り返ると、ホームに復員姿の青年を見つけました。父は思わず「正一!!」と叫びました。

  兄が復員して来るまで4年の月日、姉が帰国するまで8年かかりました。新聞の帰国名簿欄や、ラジオに耳を傾ける毎日でした。あの時を思うと奇跡が2回起きたと、今も感謝しています。


その後、彼は鉱石を分析する技術を生かし、南極観測隊に参加し、南極で発見した鉱石が今も博物館に収められています。











宮前区昨年から
砂田 紘子
シニアリポーターの感想

満州の体験者については、この方と二人目である。聞いている中で同じ船であった可能性が出てきました。早速お二人が会える機会を作りたいと思っている。

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