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戦争体験記(12)

取材日 2024年05月30日(木)

       ボク3歳

       ボク3歳

    「勝つまでは頑張る」

    「勝つまでは頑張る」

       ビラが降るぞ⁉

       ビラが降るぞ⁉

  陸運中野学校(東部33部隊)に所属した方々は「中野は語らず」をかたくなに守り続けた。 

「私は詳しくは覚えてないのですが、父は陸軍中野学校の教師だった。招集されフィリッピンの島に出兵、無事に帰ってきました。自宅は東京で米屋を営んでいたが、戦後すぐ店を閉め川崎に来ました。3歳で終戦を迎え、住まいや食の大変な生活体験はしました。父が、学校で何を教えていたかは知りません。」陸軍中野学校と聞き、彼に代わって調べてみました。


     陸軍中野学校(東部33部隊)とは
  昭和12年大日本帝国陸軍の情報機関に携わる学校として東京都中野区中野に設立。志は神(アマテラス)に基づく世界平和を掲げていた。 1期生は19名だった。しかし昭和16年太平洋戦争開始で陸軍は、極秘にゲリラ戦術とスパイ行為の教育へと変更しました。せっかく情報機関を志願して入った学校だったが、学生たちは里帰りしても学校の教育については、一切口に出せなかった。志願兵の数は、終戦の昭和20年4月までに2000名を超えた。「勝つまで戦う」教育を徹底的に教え込んだ。若く優秀な兵士は激戦地へ向かい多くが戦死した。外部に漏らさない極秘の教育を進める学校は、偽装用呼び名を東部33部隊とした。場所は中野区の他に静岡県浜松二俣校・群馬県 富岡中学校があった。

     残留兵・小野田寛朗さん
  終戦からしばらくたっても残留兵はあちこちにいた。激戦地であったフィリッピンの島民は、残留兵の一掃を願っていたし、日本政府も救出に力を入れていた。島のジャングルに籠る陸軍中野学校出身の小野田寛朗さんは29年間、ゲリラ生活を続けた。「薄々敗戦は感じていたが上司から任務の解除命令をもらっていない。」と応えている。

     難航する救出        
  小野田さんには、地上から、空からの呼びかけが数年続いた。「寛郎、出てきなさい!」と叫ぶお父さんの声に、グッとくるものがあった。しかしゲリラ戦など徹底的にしこまれた身体には、一向に効き目がなかった。
昭和50年、上司が任務解除命令を発令し、ジャングル からの救出に成功した。                 
砂田 紘子
シニアリポーターの感想

今でも映画・ドラマのスパイ3文字には、身構える。戦争の最中の出来事は厳しく想像を絶する。体験した方は、あの苦しみを口に出して語りたくはないのだと思った。取材は、かなり前に始めた。(3月頃)

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