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戦争体験(11)-2

取材日 2024年04月03日(水)

満州への移住の募集ポスターフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

満州への移住の募集ポスターフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

        ロシア人と中国人が衝突

ロシア人と中国人が衝突

                   父の戦死の報せ

父の戦死の報せ

  小学2年から中学2年までの6年間余りを旧満州国新京市街地で暮らしてきた体験から、特に終戦後の混乱期を日本人がいかに苦労して生きてきたかの記録です。   
     1945年(昭和20年)8月15日を目前に満州では大変な事に!
      満洲北部は、各地方から集まった移民27万人が住む(満蒙開拓団)。終戦の一週間前8月9日ソ連軍は条約を無視し侵攻。日常を奪い、多くの人を殺しました。満州を守るべき関東軍は敗戦を察知、開拓移民を置き去りにし逃げました。悲劇はここから始まったのです。 満州国はソ連・中国・日本の攻め合いの場所 ソ連軍は北部から侵攻を続け市街地新京へ囚人を先頭に8月19日侵入しました。窃盗・強盗・婦女暴行・殺人など筆舌を絶する。半月後9月に中国政府軍侵入。二つの国の軍が敗戦の日本人に襲いかかる日々。かろうじてアメリカとの条約と、町民の自営団に見守られ、危機を潜り抜けひたすら引揚げを待った。
        早く引揚げたかった
    恐怖と不安の毎日、引揚開始ができたのは、翌年4月14日早朝でした。馬車10台に乗り、死体を横目に,無天蓋貨車に乗り継ぎ船が出る葫蘆(ころ)島に向かいました。ここにたどり着くのは運が良い人たちです。満州を追われた人々の実態は悲惨でした。 長い逃避行に疲れ、病死、集団自決、貯えをなくしやむなく子供を売るなど今では考えられません。葫蘆島についても収容所に留め置かれた。元陸軍の兵舎で破壊されガラスがなかったり床が剥がれたり粗末な物。寒さの中、命を落とす人も続出。いざ日本に上陸しても頼る所がない家族も多くいました。幸い私たちは母の実家宮崎へ向かう事が出来ました。

          父の戦死
      新聞記者として転勤してきた父は「根こそぎ動員」の目に、早速招集軍人としてフィリッピン・レイテ島に配属されました。最も厳しい戦況の地、父の消息は不明だった。母は覚悟をしていました。数年後、遺品もない戦死の知らせが届きました。子供たちも当然のように父の死を受け止めました。若い母は、父の実家兵庫県加古川市戦没者追悼式に出席していた。どんな気持ちで臨んだのかと思うと今も胸が痛い。
砂田 紘子
シニアリポーターの感想

森川さんは、始めは、何というか、明るめに話してくださいましたが、やはり時間がたって、深く聞き始めると、トーンも落ちた。敗戦と同時に世の中が180度転換し混乱の最中を過ごし、父親に二度と会えなかった心中は如何ばかりかと思った

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