1944年南方から入って来る僅かなニュースに、国民は勝ち目がないのではと思いつつも陸軍の「勝つ」の一言に、すべてを我慢しお国の為に戦う毎日を過ごしていた。 敵軍は降伏を促すも、陸軍は応じることなく戦争を続けた。その結果無差別攻撃を招いた。
Hさんは東京空襲直後に生まれた 厳しくなる戦争に、上の3人の姉は学童疎開を強いられた。1945年3月10日の大空襲の時、私は母のお腹の中にいてまだ生まれていない。 母は私を出産する1ヵ月前に東京大空襲にあった。燃え盛る戦火を潜り抜け、埼玉に4女5女の姉、叔父と身重の母で避難。その後家族は、船橋に移動1カ月後1945年4月8日誕生。物資の乏しい中の出産育児と大変だったと思う。 町はひどい被害を受け東京全体で約10万人の戦死者を出した。叔父は母の弟で、わざわざ青森から食料を届けに来ていた。何かと家族の面倒を見てくれ助けてもらった。
三女の姉は終戦後学童疎開から帰ってきた直後につらい体験をしていた。みかんをおいしそうに食べている姉妹たちを見て、すぐにその輪に入り込めなかった。疎開で家族と引き離された寂しい毎日、せっかく帰って来たが自分だけは「はじきもの」と心を痛めた。いつでもミカンを見るとあの時を思い出す。だからもうみかんは食べたくないと決めた。姉は大人になっても食べなかったが、私は何故かなと思いながらも深く考えなかった。ミカンを口にしないその本当の理由を近年になって語ってくれた。(学童疎開は初等科3年・8歳から6年・12歳が対象。)
四女の姉は昭和12年に生まれた、病弱で満足な治療も受けられず戦争の為治療も中断。元気になっても外で遊べず、家の中で座って過ごした。大した医療を受けさせてあげられなかった両親は不憫だったと思う。 近年までこの姉を中心に集まっては、よくおしゃべりしました。仲の良い姉妹に導いてくれたことにも感謝しています。