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戦争体験記(24)    今だから話せる!

取材日 2026年07月16日(木)

  若いお母さんがやってきた!

  若いお母さんがやってきた!

   涙も出ないお葬式

   涙も出ないお葬式

   欲しかった鳥獣戯画の冊子

   欲しかった鳥獣戯画の冊子

  今だから話せるけれど、中々口に出すことはできなかったと話すKさんに出会えた。それは、数奇な運命を辿った母親、義兄達の事だった。 Kさんの母親は嫁として妻として長かった戦争の中を生きぬいたと話した。


   父の死  
Kさんは7人義兄弟の下から2番目。昭和14年生まれで福島の片田舎で育つ。爆弾の被害はなかったと話す。父の先妻は息子4人、娘1人の子供を残し病死。養育に困っていた。そんな父の元へ母は嫁ぎました。しかし私が生まれて間もなく父は脳梗塞で42歳の若さで他界。 
年頃の息子4人は政府の移民政策もあって、フィリピンで働き勉学にも励んでいた。家に残されたのは母・病気がちの姑・低学年の義姉と私。母の実家は心配して帰って来るように迫ったが、姑や小さい義姉を残しては帰るわけにはいかないと1日1日を精いっぱい生きぬいた。 (昭和初期は国土の狭さと人口数の多さから政府自ら移民政策に力を入れていた、中南米に比べ中東アジアは対偶も良かった。)

   義兄4人が出兵
まさかの太平洋戦争が始まった。フィリッピンで働いていた3人の義兄はその渦中、出兵したのです。中国へ渡った4男の義兄も奉天の学校から学徒動員で出征を余儀なくされました。
   (無謀な戦争は2年目にして死傷者を多く出し、敗戦へと突き進む。)

  終戦直前でした。夜中に雨戸をドンドンとたたき電報が届いた。家族は「やっぱり来た」と雨戸を開ける前に声を上げ絶句した。あの時の三人の戦死の報告の音を今でも思い出す。 母は息子たちの死を受け止めることも出来ないままの中で、今度は姑が病死しました。四人の葬式を出さなくてはならなくなり、葬式は二人ずつ二回に分けました。涙も出なかったです。

  復員した四男の兄は国立大学に入り直し教師になった。数年後にうつ病を発症した。雨戸の小さな穴から覗いては「敵が来る」と怯えた。戦争の後遺症で一生働くことはできなかった。


  母の2度目の結婚
 貧しく母は月が照っている時は夜中まで身を粉にして働いた。いつもぼろの着物、髪の毛は真っ白、歯は抜け同じ年齢の女の人よりずっと老けていた。授業参観日そんな母を見るのが辛かったです。周囲も心配して、奥さんを亡くした叔父と結婚して16歳離れた弟が生まれました。


Kさんはこの環境から逃げだしたく勉強に力を入れた。今でも入試困難な美大に入学。誰よりも真っ先に喜んでくれた伯父は、お祝いに鳥獣戯画の冊子をプレゼントとしてくれた事は、忘れられない良い思い出ですと締めくくった。
砂田 紘子
シニアリポーターの感想


  Kさんから、母の事を次のように歌って託された。

   ”月明り畑を打つ母の影遠し”

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