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戦争体験記13

取材日 2024年06月30日(日)

          お兄ちゃんと一緒なら

     お兄ちゃんと一緒なら

    栄林寺ではこんな事も

    栄林寺ではこんな事も

    父と母の大喧嘩

    父と母の大喧嘩

       1934年生まれの私は、3人兄妹です。
 4歳の時杉並から蒲田に転居しました。昭和16年矢口小学校に入学しました。12月には太平洋戦争が始まりました。日常生活は戦争一色へと突き進みました。 政府は、子供を戦争から守るため疎開を決めました。疎開は縁故疎開と集団疎開のどちらかを選ぶものでした。昭和19年兄が小学6年生、私は4年でした。学年によって集団疎開場所は違っておりました。たまたま4年生6年生は同じ場所と聞きました。兄が一緒なら、心強いと思い集団疎開を選びました。場所は静岡県二俣栄林寺です。

        人間不信に!
   当時は、満足な食糧は望めない環境でした。ここで私は人間不信になりました。食事の配膳が始まりひもじいお腹を満たせなくても、何とか口に入ると思っていましたが、特配(特別に配給すること)を教えられました。4年生は「私はご飯を減らしてください。」と言わなければならないのです。僅かな食事量から更に量を減らします。4年生から取り上げた食事は、一部の6年生に特配するのです。疎開先では「強いものに巻かれる」の苦い体験を語る方も多い。

  栄林寺の前は畑で子供しかいないのに、昭和20年に入ると、所かまわず、B29が飛んできました。私が外を見ていたら、B29が低飛行で私の前に現れました。操縦士と銃をかまえた兵士をはっきり見ました。銃が私に向いたとき咄嗟に窓のさんにしがみつき、とにかく体がぶるぶる震えだしました。先生は「伏せろと」叫んだが、何もできなかった。体の震えは夜中まで続き、この怖さを今も忘れることはできません。昭和20年6月に父が不意に私たちを迎えに来ました。本当に嬉しかった。

         父と母が大喧嘩
   父と母が大喧嘩をしたのは、前にも後にも1回限りだった。8月14日灯火管制厳しい中で、母はお国の為に、電気を暗くしました。それを見た父が「無意味だ、やる必要はない」と大声で怒なり大喧嘩になりました。私は母が正しいのになぜと思ったのですが、その理由がわかりませんでした。 翌朝15日重大発表があるとニュースが流れ、近所の人たちが集まってきました。12時の敗戦の玉音放送に大人が大泣きをしたのを覚えています

   

龍顔寺(栄林寺)(静岡県二俣):漫画「のらくろ」の作者、田河水泡が学童疎開のために訪れたお寺です。彼は子供たちに漫画を描いたり落語をしたりして慰問し、交流を重ねました。
砂田 紘子
シニアリポーターの感想

いろいろ経験した事を子供たちに語ってきたけれど、銃口が私に向けられたその怖さが、どんなものだったかを伝えきれていない。
信じられないという子供たちは、戦争の怖さは肌では感じられないのではと語る。戦争体験は、2度としたくないと思った。 取材は5月から始めた。