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戦争体験記(5)

取材日 2023年02月27日(月)

 兵隊さんは日本の為に・・・

 兵隊さんは日本の為に・・・

 勝ってくるぞと勇ましく...

 勝ってくるぞと勇ましく...

 なんて、惨いことを!

 なんて、惨いことを!

名古屋に住み小学校低学年時に戦争体験した金坂さんご夫婦の話を聞いてみました。

  小学生の通学(妻)
朝の通学は集団登校。小さい学年が前で後ろに6年生がつき縦列は一糸乱れることなく歩き、おしゃべりはもっての外だった。曲がり角は直角に曲がらなければ注意された。大声で戦争の歌を歌いながら手と足を高く振り上げて歩いた。学校の正門につくと奉安殿に行き最敬礼しそれから校舎に入った。 講堂での集会は、校長先生は白い手袋をして教育勅語を読み上げ、私達はしわぶき(咳)一つせず静寂の中で頭をたれて聞いた。 (奉安殿とは、天皇陛下の写真(御真影)と、教育勅語を納めていた建物・殆どの学校に建築されていた)

88歳でもありありと思い出す!(夫)

御屋敷が集まっている町内に空襲があった。後で見に行ったら爆弾でえぐられた直径10m程の大きい穴がいくつもできお屋敷らしいものは跡形もなかった。大勢の人は真っ暗闇の中、近くの庄内河に向かって逃げた。しかし敵はその集団を照明弾で昼間のように照らし焼夷弾を打ち込み多くの人がそこで殺された。河からの漂う死臭を今も思い出す。

昭和20年小学校は3年で閉鎖となる。私は縁故疎開で津島へいく。ここでも屋根すれすれまでに艦載機が降り機関銃で無差別攻撃をした。その度に床下へもぐり込んだ。屋根をはがすような「バリバリ音」の恐怖は今も忘れられない。

疎開の為、津島に行く直前に壁の隙間から覗いた惨い光景も思い出す。 B29を大砲で撃墜した事件だ。落下傘で降下した一人のアメリカ兵を捉え戦犯とし皆の前で裁いた。これが人間のやることか?何か見てはいけないものを見てしまった。(当時日本にB29が35,000機以上飛来し460機近くが墜落又は撃墜したとの情報が残っている。)  
砂田 紘子
シニアリポーターの感想

撃墜したB29の残骸、アメリカ兵に関する記録については、敗戦の為アメリカに知れ渡る事を恐れ、処分されたものがあったらしい。戦犯として裁かれたアメリカ兵を住職が手厚く葬ったとの記録もある。