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戦争体験記1

取材日 2022年07月26日(火)

庭の防空壕

庭の防空壕

大泣きの少女

大泣きの少女

貝になった少女

貝になった少女

1945年昭和20年頃、戦火はいよいよ怪しくなった。 宮崎県宮崎市でも各家に防空壕を掘った。空襲警報発令の度に、壕へ走った。敵機が近づくと地響きがし壕の蓋は今にも開きそうになる。姉は小学校の1年生。5月11日授業中に警報が鳴りすぐ帰るように言われ、校門を出た所で焼夷弾が学童の列に突っ込んだ。姉は吹き飛ばされたが幸い無事。学童12人が亡くなる。校庭に「いとし子、命の集い」の碑が建っている。宮崎市では学校も通えないと心配した両親は、姉と私を母の実家大分県臼杵に疎開させる事に。連れて来た母は早朝子供2人だけおいてそっと帰ろうとしたが、私は物音で目を覚まし猛ダッシュで母を追い汽車に飛び乗り帰った。 戦火は一層厳しく宮崎にいた父母と私は、父の実家鹿児島県高隅に疎開する。汽車は満員でドアから入れず窓から潜り込む。今なら1時間で行けるが、途中で汽車が止まる。乗客たちは近所の家に泊めてもらう。早朝高隅に急がなければ危ないとひたすら歩いた。何処を通ったかは覚えていない。険しい山道、川の湧水で喉を潤し気になった七五三祝いの赤いはなおの下駄を鞄からだし眺めて疲れを癒した。暗くなって 着いてみると鹿屋から疎開してきた人でごった返していた。早速鞄を開けたら下駄がない!川に忘れてきたのだ。しばらく大泣きし迷惑をかけた。 今思えば実家とは言えなぜ危ない航空基地のある鹿屋に近い高隅に向かったのであろうか。(プロパガンダ?) 母の実家に1人残された姉は、悲しく又怒り母が迎えに来るまで、 お世話になった親族には、言葉を忘れたかのように貝になりすまし口を閉ざした。母が許せなかったと、笑い話になるまでは数十年いや今も許していないかもしれない。
宮崎県
砂田 紘子
シニアリポーターの感想

昭和15年生まれの私が高齢になった今、幼い時の思い出はと聞かれると過去の戦争が頭をよぎる。8月終戦日はつらい。この悲惨な体験を残そうと思った。昨年の秋、お礼も込め疎開先父の実家鹿児島県高隅の山奥(現在は鹿屋市)に出かける事にした。区役所で戸籍謄本を取り寄せ、当時の事を高隅の役場で調べた、民家はなく多分「ここら辺りです」を頼りにレンタカーで出かけた