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戦争体験記2-2    長崎原爆投下(2)生き証人の手記から

取材日 2022年10月01日(土)

焼け焦げた人を横目に、立ち上がる
焼け焦げた人を横目に、立ち上がる
あ!久子が生きている
あ!久子が生きている
今日も病院
今日も病院
 長崎で被爆した久子(当時16歳)さんは爆心地からの500メートル圏内にある城山小学校で働いていた。昭和20年8月9日午前11時2分!2機のB29が飛来しファットマン爆弾を投下。

「助けて!」何度叫んでも反応がない。校舎は焼け崩れ,人間は黒く焼け焦げ、うめく声が、自分はようやく立ち上がれた。危ないと逃げる。気がつくとモンペが裂け、指は肉がはがれ骨が見える。頭からは血が噴き出す。血の匂いを始めて嗅いだ。 喉が渇き泥水を口にする。痛みでもう歩けない。

死ぬと思った時若いお兄ちゃんは、負ぶっていた子供は火傷で助からないとおろし、久子さんを負ぶって避難所へと向かった。救護所はあちこちにすぐ開設。 重傷者が多く、自分は翌日諫早に向かう救護列車に乗った。焼け野原には「首がちぎれた赤ちゃんをしっかり抱っこする母親、お腹の腸が飛び出た人、頭がい骨が残った馬」と地獄

爆弾投下後も艦砲射撃は続き、息絶えたと思う人がガバット起き上がり避難しようとする、自分にはその力はなくただ見ていた。避難所で出会った知人が「久子さんは、こちらの救護所に居ます。」と柱に張り紙をしていた。お蔭で父親が被爆の3日後に迎えに来た。

被爆1週間後には長崎線が開通。昭和20年10月にアメリカ進駐軍と日本との合同調査が始まる。久子さんが自宅に戻るのは3か月後の12月。髪の毛が抜け自分の容姿に愕然と。被爆直後から今日まで、身体に食い込んだガラスの破片除去、被爆特有の癌発生への手術・入退院の連続だった。 93歳の自分は2人の子宝に恵まれて幸せと綴る。(一部抜粋) 
資料は手記 長崎市HP
ピカソ作「ゲルニカ」   スペイン出身のピカソはゲルニカ村が先の戦争で無差別攻撃を受け、廃墟となった。その怒りを表現する。
ピカソ作 ゲルニカ一部

ピカソ作 ゲルニカ一部

長崎市
砂田 紘子
シニアリポーターの感想

手書きされた記録は胸が痛む。ピカソが描いたゲルニカの絵が、久子さんの手記と重なる。今久子さんは93歳になり心穏やかに過ごされている。
永久平和が日常ではなくなった昨今が残念でならない。

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